一夜明けて

 赤星選手が、去年の1リーグ騒動時に、「野球ももっとファンを大事に、選手も育てていかなきゃ。その点サッカーは、子どもの時から有望な子にチェックをいれて育てていこうという体制が整ってる。今僕に子どもがいたらサッカーをさせますよ。」という意味のことを言ってた。長島一茂さんが、宮崎の小学校で講演をして、ふつ〜に「巨人ファンの人は?」ときいたら140人中10人ほどしか手をあげなかったことにショックを受けたと記事になっている。その後「まず、野球をできる場所がないのをなんとかしたい。」と言ってたという報道もあって、それはなかなか的を得た意見だと思う。
 サッカーは、ボールひとつあればできる。せまい路地でも、一人でも、とにかくボールをけることはできる。野球は、今安いものが出回っているとはいえ、最低でもボールにグラブが必要。バッティングがしたければ、バットも必要だし、何より相手が必要。野球は、そこらへんの公園でも禁止されているし、路地などでは危なくてとても無理。壁当てができる壁もないのが都市部の実状。キャッチボールをするために車で出かけなければいけない。バッティングならバッティングセンターへ行ってお金を払うしかない。
 もちろん、日本ではもっと環境に恵まれていないスポーツもたくさんあるのだ。フェンシングをしようと思ったら、まずどこでならできるのか、探さなくてはいけない。近所にフェンシングの場がある人はまれだろう。国技である相撲をしようと思っても、これまた大変である。
 
 子どもが、特に小さい手のかかる子どもが、何時間もゲームに熱中している状態を楽でいいわ、と言葉にはせずとも思う母親は多いだろう。外で遊ぶと言われたら、このご時勢、「行ってきなさい。」ではすまないのだ。誰と遊ぶか、誰となら遊べるのかというセッティングから、場所の心配、不審者の心配、喧嘩になれば親が責められ、子どもが泣いて帰ってくれば心配が増え、ついて行って見守るとなれば自分の時間は削られ我が子の傍若無人な振る舞いにはらはらし、帰ってくるときには疲れて家事もそこそこにしたくなる。
 もう残っていない空き地や野球をしていい公園の代わりに、子どもたちは電脳の世界に遊びにでかけて行くようになった。親は、とりあえず怪我や不審者や他者とのトラブルを心配しなくていい。だけど、刺激的で快適な電脳の世界から、もうそこから帰ってこられなくなりかけている子どもたちを心配する大人もいる。
 ごく普通の小学校所属の野球チームなどは、かかわる大人は無償のボランティアであることが多い。平日は仕事をし、休日に、コーチや監督として子どもたちをみるのだ。暑い日も、寒い日も。さわやかな晴れた日に白球を追う時もあれば、雪の舞う中、みぞれの降る日、子どもたちの脱水を心配しながらの炎天下もある。頭が下がる。

 赤星選手は、子どもができたらサッカーをさせるのだろうか。